【 はじめに 】
馬は、遠野地域における農家の宝として貴重な存在であったことから、家族の一員として遇され、遠野独自の家屋建築に代表される南部曲家へと発想され、農耕の労力使役、良質堆肥の供給等農業の発展に寄与してきたとともに、農畜林産物を初め、諸物資、資材の運送等、交易流通の唯一の手段として、地域住民の生活、産業、経済の発展に貢献してきました。
また、古くは南部駒の産地として隆盛を極め、数多くの優良な南部駒を輩出されてきました。
源義経が、奥州平泉藤原氏に依りし時、愛用した乗用馬「小黒」黒鹿毛は、遠野小友村、鷹鳥屋小黒沢の産であり、文治年間衣川の戦に没落後、村民、小黒沢部落に石碑を立て之を表したと伝えられています。
【 遠野の馬の歴史 】
文治5年、阿曽沼氏が領するに至って、組織的行政が実施され、地理的環境から、三陸沿岸と内陸部との産業、生活上の物資の交易が盛んとなり、馬は、軍戦兵器のみならず、農耕運搬、駄送馬としての役割も極めて重要であり、輓引馬の生産育成にも努力されてきました。
寛永4年、八戸より移治された遠野南部氏は、甲斐国馬の血統と共に糠部郡から蒙古、中国、露国の血統の入った、陸奥馬を導入し、道産馬との交配により新たな遠野地域の基礎馬が作られました。
南部直栄が遠野に移治した時、旧領内陸奥馬「奥戸(オコッペ)」なる名馬も乗馬として移入されました。
万延元年(1860年)金沢藩主、前田侯より乗馬を求められ、領内から選んで採用された牡馬は、附馬牛町東禅寺産であるといわれています。
明治維新以降、三陸沿岸と内陸部を結ぶ産業、生活物資の交易、旅客の往来が極めて頻繁であり、従って交通路沿いの村落民は農林業の傍ら、駄送業(ダチンズケ)に従事し生計を立てていた農家が多く、使役利用馬の育成、背に重荷を負い、急陵な坂道、峠越しの難路に堪え得る、強靭な馬の生産に努力されてきました。
また、この時代から馬産振興の気運が高まり、洋種馬を買い求める者多く、明治29年遠野町、川村友次郎、菊池源之助、菊池幸七、有志と相謀り、ペルシュロン種、静号の購入をはじめとし、トロッター種、北溟号、同種カノンホール号、同ポップエイキス号、同チャレー号の導入が代表的であり、特に静号、北溟号の成績が優秀でした。
我が国の馬産の中心は、藩政時代から第二次世界大戦終結に至るまで、軍用馬の生産を主たる目的として、生産改良増殖が進められてきたといっても過言ではないでしょう。
終戦により、従来の馬政上の諸制度は、進駐軍の指令に従い、根本的に改正されました。
昭和初、中期に於ける、成績良好なる主な種雄馬としては、アングロノルマン種「オスマン、ヴィル」アノ系種「宝藤」「雄山」中半血「千山」等があり、特にも昭和28年フランスから導入のブルトン種「フィンヤン」は戦後に於ける地域馬産改良増殖に大きな成果を上げています。
昭和46年に遠野市乗用馬生産組合が組織され、これを受けて上閉伊畜産農業協同組合は松崎町駒木に馬の生産育成施設として乗用馬育成センターを設置し、農用馬、乗用馬の種付け、乗用馬の育成調教の事業体制が強化されました。
平成10年には遠野馬の里が供用開始になり、乗用馬育成センター跡地に同センターの事業を引継ぎ又は、新たに競走馬の育成調教事業を行ってきています。